2007年11月27日火曜日

怒りの必要性

GABOR MATE という米国の医師が書いた WHEN THE BODY SAYS NO (邦訳タイトル:「身体がノーと言うとき」教文社)の 最終章に 
治癒のための7つのA という章がある。

  1. Acceptance
  2. Awareness
  3. Anger
  4. Autonomy
  5. Atacchment
  6. Asseertion
  7. Affirmation
このAnger の中で紹介されているアレン・カルビン(モントリオールのマッギル大学のハビブ・ダヴァンルー博士の手法を踏襲するトロントのセラピスト)が面白いことを言っている。

怒りの抑圧も爆発も、本当の怒りを感じることを恐れる気持ちがもたらす

これはかなり 面白い。 実際に、医師として このような観点からアプローチをして、臨床上の結果を出しているということだとすれば なおさら。


ガボールは、怒りを ネガティブな感情と捉えたり、それを治療すべきものだと言っているのではない
怒りは、それを真正面から100パーセントの純度で感じ取られる時のみ健全であり、それは 重要な認識とパワーをもたらすというのだ。


「本当の怒りを感じることは表面化しない生理的な体験だ。この体験は体内をめぐる力の高まりの一部であり、攻撃のために動員される力とは別だ。『この体験と同時に、あらゆる不安は完全に消滅する。』」





 「本当の怒りを体験するとき、劇的なことは何も起こらない。ただすべての筋肉の緊張がゆるむだけだ。あごの力が抜けて目は大きく間く。声帯から力が抜けて声の音程が低くなる。肩が下がり、全身の筋肉がほぐれるのを感じる」



『怒ること=怒りの表出』は、人に逆切れされて『怒られる恐怖』と 表裏一体だと言えるかもしれない。

すなわち 怒る=怒られる というセットが出来上がっていて 怒りが出てきた瞬間に 生まれる恐怖が怒りを抑圧する。 


怒りの抑圧 が 社会的な不利 を計算しての事であれ、幼少時に条件付けられたものであれ、「怒りを表出すること」が 他人との関係で『不快』をもたらすということだ。




カルビン自身の見解も紹介しておく

ポジティブな感情や愛情、ふれあいを求める相手に対し 攻撃的な表現をすることは、その関係を脅かす。
それは 恐怖、不安、罪悪感を生み出す。
自分の中に湧きあがる攻撃的な衝動を無意識に恐れる人は、防衛策として『抑圧』か『爆発』という形をとる。
爆発すなわち、怒りを行動化すること、つまり怒鳴ったり、金切り声をあげたり、殴りかかったりすることもまた、怒り(=恐怖や不安)を実感しないですませるためのものだと言う
。怒り爆発もまた 不安の抑圧の ひとつの形であると言えそうだ。

大人の行動様式を身につけた者は これを抑圧しきることだろうが、いずれにせよ さまざまな生理的ストレス反応をもたらす。



良好な関係の相手に対し 攻撃的な表現をすることは、その関係を維持出来ないかもしれない、という『推測』を生むのだ。
この『推測』というのは、未来という時間の幻想に基づいている。
『過去⇒現在⇒未来』という 「空間の中に横に並べた物体」の比喩イメージである『時間という物語』に 組み込まれる瞬間である。 

この「物語」のリアリティが、恐怖、不安、罪悪感を生み出す。


怒りを『感じないように』するための道具は やはり言葉(物語)である。
「そんなちっぽけな事で怒るなんて 一人前の人間として 格好悪い」とか、「相手は物事が分かっていない むしろ、可哀想な奴なんだから」とか、別の物語を作り出して怒りを納めようとする。

充分に納得のいく「怒りを押さえつける物語」がうまく作れないときは、関係が壊れる不安に目をつぶり、大声でどなったり、物を投げつけたりして怒りを爆発させる。

物語と物語が ぶつかり合い、一種の混乱(パニック)状態が起こっている。



物語(未来という物語)から 出て来なければならない。
本当に、実際に、
『いま、ここに、あるもの=この怒り』
に 焦点を当てる というだけのことだ。



『この体験と同時に、あらゆる不安は完全に消滅する。』

不安もまた 物語(幻想)が生み出したものである。
怒りという現実=感覚 に戻ってくるとき、不安を生み出す幻想はすでにない。

それがいかに不快であっても、
「今現在、感じている身体感覚」に戻ってくること。
これは 怒りに限ったことではないのかもしれない。



しかし、ガボールの言いたいことは、ここが本題ではない。

怒りの表明―境界を守るために一歩を踏み出す事は、自分自身を尊重することであり、 他者の境界を侵害してしまうのではないか というような心配こそは無用なのだ、と。

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