2007年11月26日月曜日

なぜ? の呪術

THE DIRTY HALF DOZEN  という変なタイトルの本がある。( 邦訳のタイトルはもっとヘンテコだが)

人間関係を生き延びるサバイバル技術を6つ(半ダース=HALF DOZEN) にまとめているのだが、DIRTYとはなんだろう。

シカゴブルースやブギウギ、ジャズの中にTHE DIRTY DOZENというタイトルのアルバムがいくつもある。

THE DIRTY DOZENは、母親を引合に出して卑猥な言葉で相手を罵倒するアメリカの言葉遊びらしいのだが、元は、12編(1ダース)の短詩形式で暗唱させる聖書の布教方法を子供達が茶化して流行らせたのが始まりだとも聞く。
12人(1ダース)の囚人たちによって作られた特殊部隊の活躍を描くThe Dirty Dozen』(特攻大作戦)というタイトルの映画もあるので なにげなく戦争のイメージを重ねているのかもしれない。


心理学は、支配者階級の人々にとっては社会統制の技術以外の何物でもないが、一般人の需要としては「臨床」がほとんどであり、病的な状態の研究が多い。
しかし、中にはこの本の著者(ウィリアム・ナーグラー/アン・アンドロフ)のように、「健康な人間関係」を研究している人もいる。


6つのDIRTYのひとつである「ウソ」の必要性を奨める章の中で 著者は、なぜ? と なにが? という 二つの問いについて 書いているのだが これが、おもしろい。

もちろん、状況や文脈にもよるのだろうが、対人関係の中での 『なぜ?』は、 そのまま 相手の存在の否定である というのだ。

本物の戦争にしたくなければ、なぜ?と言いたくなった時に、なにが?と 言い換えて言葉を組み立てる。『なんで(どうして)遅れたの?』 ではなく、『なにがあったの?』と。

なぜ?には 価値(私はドジだから)が反応するが、なにが?には 叙述(起こったこと)が反応する。価値判断は緊張を生み、叙述はリラックスをもたらす、と。



学問には 『なぜ?』がつきものである。
学問は、「全体としていまここにある世界」を、否定する。そうしなければ、始まらない。
世界を 言葉の構造に沿ってフォーマットし直し、知識の構造として、『自由に取り出せる』ように 組み立てなおすのだ。 こうやって 『実用性』という価値を作り出す。
科学の「なぜ?」は、厳密な検証を通して、実用に耐えるだけの物語に仕上げていくだけではなく、それが仮説(ものがたり)であることの自覚を持っている。

真剣に なぜそのようであるのか を問う時、思考ではなく観察が起こるのだが、ほとんどの『 なぜ?』は、不満の表明に過ぎない。この不満の原因(なぜ?)を自らに対して問うのは破壊的である。そこで生まれてくる物語は「あるがままの自分」の否定とならざるを得ないからだ。


自分自身に対して呟く『なぜ?』だけではなく、他人から受け取った『なぜ?』もまた、同じように自己否定が反応する。これは、砒素を仕込んだクッキーを気軽に口に入れているようなものである。


しかし、言葉の罠から抜け出した人にとっては、関係のない話だ。『人間の価値』という言葉に 意味を感じないから、他人が投げかける『なぜ?』に反応のしようもなく、自分の現状に対して『なぜ?』と 問いかけることもない。



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