2007年11月14日水曜日

「自分のことば」というウソ

「99.9パーセントは仮説」 竹内薫 

99.9パーセントは仮説という本がある。ものすごくおもしろいのだが、このタイトルはなにやら奇妙に聞こえる。言葉で組み立てた『説』そのものが仮構のものだからだ。

考えるとき、人は コトバを使う。
コトバは他人の納得を取り付けるためのルールだ。

このルールの実体は、「世間の慣習」であり、私たちは、こういう「ルール・ブック」をコピー(学習)していつも持ち歩いている。

ルールというものは、自分に属しているものではない。
よく『自分の言葉で語れ』というが、実は、自分のコトバなどというものはない


ルール(コトバ)は、自分(わたし)に属しているのではなく、「わたし」というコトバの方が、それ(ルール=世間)に属している。


神の名を呼んではならないという宗教がある。名(コトバとして)を呼ぶとは、人のルールの中に神を堕ち込ませる事であり、神の超越性を損なうことになるからだろう。中近東起源の一神教の神の名はエホバとかヤハウェだと思っている人は多いと思うが、これらはおそらくはハンドルネームであり、本当の名を手に入れることの出来た人間は唯一モーゼだけのはずである。砂漠の神はなぜか、人に使役されるのを嫌がる。

日本の神々は、名前を知られるがゆえに、コトバのルールに取り込まれ、言霊に支配され、人の願いをきかされてしまったりする。

「自分、わたし」というコトバがなければ、「わたし」は存在しない。あるのはただひたすらに流れる感覚と、それらが映し出される意識である。


コトバで考えるとき、その「内容」は、ルールに制限され、「他人に承認される」「他人をコントロールする」というレールの上を滑って行く。その意味では、コトバに自由はない。

「コトバで考えている」のではなく、実際は、コトバの論理に 考え「させられ」ている。

コトバで考えるとは、「仮想の他人」を納得させるための、シミュレーションに他ならず、考え始めた途端、心の中に『人々』が呼び出され、その人々を納得させるための努力が始まる。

コトバが考えているときは、意図してそれを止めることは出来ない。意図(止めよう)もまた、「考え」であり、火に油を注いでいるのと同じである。


コトバの世界での肯定は 他のものの否定に支えられている。名前をつけるとは、特定することであり、それ以外のものを排除=否定することだ。

。混沌とした無秩序な宇宙にコトバ=否定の網をかけてバラバラにすることで、はじめて人は「世界」を「レゴ(積み木)」のように好きなように組み立てることが可能になる。

「敵=あいつら」を特定=否定することで、「味方=われわれ」という集団を括り出していくという政治的な性格は、政治家たちが言葉を使うからそういう性質を持つようになったわけではなく、言葉そのものが本来的に持っている性格なのだ。

「同じ言語を使う」ということは、仲間を確かめる「合言葉」に他ならない。

こうやって、われわれ=味方の集団にとっての「世界」と言う「物語」を組み立て、維持していく。

ものがたり(ストーリー)こそは、「世界」や「歴史」という意味を生み出すための呪術の式(型)なのだ。


そして、この「物語」という架空の世界イメージを共有する事が、「コトバが通じる」ということであり、集団を維持し、内部での葛藤や闘争を調整し、共に生活していく事を可能にする土台となる。

別の物語(神話・歴史・価値観)を持つ集団は、また違う「世界」を持っている。
「厳密な論理」というのは、違う世界イメージや価値観を持つ人々(集団)と、自分達が持つ価値観とをどうしても摺り合わせる必要が生じた時に使われる、グローバル・ルールととらえればよい。

しかしながら、言葉の根底に「否定」があるかぎり、言葉によるコミュニケーションを徹底的に突き詰めると、相手か自分自身の否定に行き着くはずだ。



事実を見たり聞いたり、感じたりして、それをコトバで表現することと、考える事とは、まったく異質の行為である。
表現として、「コトバ」を、「今感じている事実」に貼りつけて使う限りは、問題は起きてこない。
しかし、他人に表現する必要のない場合は 「考え」や「コトバ」は不要であり、有害であるとさえ言えるかもしれない。
ここで言う「有害性」とは、コトバ本来の機能である呪術(モノガタリ)性が感覚に「意味」をくっつけてしまうことを 指している。

ミゾオチに感覚を感じ、「痛い」「痛み」と言うとき、それは単なる「表現」であり、混乱は生じない。しかしその時、 「『胃が』痛い」 と呟くなら 明らかにその人は 自分に対して呪術を仕掛けていて、すでに「 妄想 」の中に居る。
「現実」である 痛み に 「 意味」をくっつけ、観念に変化させてしまうとき、現実への対応はズレて来る。


「今感じている事実」と「コトバ」とは別のものなのだ。

現実を処理するのに「コトバ」を使うと、言葉のカタチでもある「因果構造=時間の物語」の中で扱かわざるを得ず、あれこれと原因を考え始めたり、自分の行く末を案じ始め、あっという間に妄想の中に引きずり込まれ、終わりのないゲームの世界に閉じ込められてしまう。

また、「考える=コトバを操作する」事は、調停、交渉、協調、闘争という、本来、社会的な関係の中で使う道具を、個人の内側(心の中)で使っているわけだが、これは、戦い(狩猟)の道具である「弓」や「矢」を、家の中で使っているようなものだ。
「ことば」を使うのに最も適している状況は他人に対して、NO を 表明する時なのかもしれない。

コトバを使って考える 限り、その内容がなんであれ、それは 「仮説」である。

そして仮説というものは、どれほどそれらしくとも、タトエバナシであり、オトギバナシの域を出る事は不可能なのである。

ヴァーチャルな問題(目に見えない問題)を扱う際は、ヴァーチャルな道具(仮説)を使うしかないが、その際、注意を払わなければならないのは、ヴァーチャル(仮想)と、リアル(現実)の混同である。

それら(仮説と現実)を混同した途端、言葉の呪術にかかってしまい、幻想世界に巻き込まれる。

社会生活を送る必要上、言葉のやり取りが必須であるとするなら、同じ土俵(幻想)にのらなくてはならない。これは インターネット上でのやり取りに同じ文字コードを使うという約束事と同じことである。

コミュニケーションの必要に応じて、自覚的に幻想(言葉)世界に飛び込み、必要のない時は 自由にひょいと出てくることが出来れば言うことはない。

だが、麻薬中毒にも似て、これがなかなか抜け出すことが出来ない。

0 件のコメント: